私の介護体験記 定期巡回サービス土屋粕屋 宮﨑裕子

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私の介護体験記 定期巡回サービス土屋粕屋 宮﨑裕子

平成12年から介護の仕事をしています。これまで、様々な方と関わらせて頂きました。
特に、認知症の方々との関りが多い私は、どの方とも色々な思い出があります。

とりわけ印象的だったエピソードをご紹介したいと思います。

エピソード①

2001年、私は介護を始めて2年目の事。ある秋の日の夜勤。

昼間は所謂「好好爺」、穏やかですが昼夜逆転傾向にある利用者A様。
その日も、消灯時間を過ぎても目は爛々とし眠くなさそうでした。

22時の巡回で休んでもらおう、先輩職員とそう話をしていました。時刻は22時前。
A様の居室から、今まで聞いたことの無い様な驚きの声が聞こえました。
只事ではないと先輩職員と駆け寄ると、「こりゃえずか!」とテレビを指さしていました。

そして画面には、飛行機がビルに飛び込む映像が流れていました。

そう、その日は9月11日アメリカ同時多発テロの日だったのです。

A様は、嘗て捕虜になった経験のある方でした。

「戦争はオイの時代で終わってよか」と泣きながら手を合わせていました。

背中を擦り、落ち着いて頂きながら、「A様をはじめ高齢者の方々が苦労を重ねて下さったから、今の暮らしがあるんだ…」そう気づかされた出来事でした。

認知症が有っても、過去の記憶は鮮明に引き起こされる事が有ります。
また、「今の姿」だけでなく、「それぞれの過去」を可能な限り理解して寄り添いたいと強く思った出来事でした。

エピソード②

私はこれまで、グループホームや在宅で何人もの方の最期を経験させて頂きました。

もっと理解をし、寄り添う為に勉強したいと思い、「終活ガイド」の研修を受けました。
受け終わったあとのお話です。

B様は、認知症状でいうと「重度」と思われる方でした。(長谷川式スケールでは測定不可能の方)
しかしながら、いつも優しく穏やかで、ふと見ると誰かの背中を擦ってくれている方でした。

B様がある日、体調を崩され救急搬送となりました。

当時は、コロナ禍真っ只中で病院ではご家族の面会も出来ません。
そんな中、病院で脳梗塞を発症されたとの連絡を受けました。もう手立てがない状況で余命1週間だろうとの診断でした。

「このまま病院で会えないより、せめて家らしい空間で過ごして欲しい」ご家族の思いに応え、一時的に面会室をご本人様室に変え、ご家族がフロアに入ることなく面会出来る様にしました。

ご家族や主治医とのICの際、ご家族から一通の手紙が読まれました。そこには達筆な字で「延命不要」「遺産は〇〇に寄付」と書かれていました。

B様がまだ在宅で認知症の症状が出始めた頃に、「この先皆が困らないように」と記されていました。
「若いころから、穏やかで優しいけど芯の強い母なんです」そう、ご家族は仰いました。

ご本人の思いを受け、その日からご家族とスタッフとの看取りが始まりました。
だんだんと呼吸が浅くなるB様、正直見ていて辛くもありましたが、「ご本人の意思」を尊重するしかありませんでした。

毎日、B様の好きな花柄のお洋服に着替え、清容ケアをし、話しかけたり、笑いかけたりしました。だんだんと呼吸が浅くなり、医師の診断どおり1週間で亡くなりました。

様々な方の最期に携わらせて頂きましたが、「ご自身の意志で生き切った方」は初めてでした。これからも、お一人お一人の「生」に丁寧に寄り添いたいと心に決めた出来事でした。

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